あらんです

ドーモ、あらんです。

変わったこと、変わらないこと

たぶん引きこもる準備ができていた。

私は2017年の1月から個人事業主として活動している。仕事の中身は以前と大差ないが、原則フルリモートで生活するようになった。通勤がなく、出社がない。そのため、毎日満員電車に揺られることもなく、たくさんの人に囲まれて仕事をすることもなくなった。

カイシャに所属しないことで、感染するリスクに晒される機会が減った。運が良かった。

私はオンラインゲームの世界にどっぷり使っていたこともあり、SkypeやMumble、TeamSpeakや最近だとDiscordといったボイスチャットをしながらゲームをプレイすることが多かった。相手の顔が見えなくても、相手の声が聞ければ、それだけで十分に意思疎通が図れることはずっと前から自身で経験していた。(むしろ、ゲームをプレイするときに他人の顔が見えることは、邪魔でしか無い。) フリーランスになってから、海外に行くことが増えて、そういうときにはリモートで会議をするのだが、特に問題なくできた。今のツールは顔も見ながら通話ができるというのだから、なんとも高度な技術である。トンデモなく情報量が多いように感じる。会話に集中したいなら、表情はノイズになることが多いと感じる。雑談や飲み会でやる分には良いと思うのだが...。もちろん、ちゃんと相手が会話に参加していることが前提の話だが。。。

オンラインゲームをやっていると、インターネットの回線の強さ弱さのようなものを意識するから、回線は速度がでて強力なものを選んだ。以前はプロバイダの不具合のことを考えて、2つ回線を保持していた。そのため、トラフィックが増えても大丈夫な回線基盤が用意できていた。運が良かった。

関連して設備的な話をすると、スタンディングデスクと負荷の軽減される良い椅子を導入していたので、作業環境も充実していた。これもやっておいてよかった。空気清浄機もある。

仕事の内容にもよるし、性格など人によりけりだと思うが、私はパーソナルスペースの感覚が人より広く、すぐ近くに誰かが居ると人間から発される音や気流が気になって集中できない。精密な作業というのは、誰にも邪魔されずひっそりやりたいものである。したがって、誰かがいないと集中できないとか、寂しいとかいうのは無い。むろんずっと一人というのは辛いから、たまには誰かと顔を合わせて食べたり飲んだりしたいものではある。でも、それは仕事においてでなくて良い。自分の性格により、引きこもる心構えができていた。幸運であった。

幸か不幸か、結婚もしてないし同棲もしていないし、子供もいないため、一人でいられる時間を長くできる。そろそろ家庭でも持ちたいなあなどと考えていたが、なんのめぐり合わせか、もう少し先になりそうである。

昔から神経質ではあったが、更に強化されたように思う。私は目をこすったり、顔を触ったりする癖があったのだが、これをなくした。風邪を引くことが多かったのは、もしかしたらこういうところが経路になっていたのかもしれない。ヒゲも剃った。もしかしたら坊主にするかもしれない。

掃除をこまめにするようになった。モップがけと掃除機がけはしていたが、雑巾がけに変えてみた。私はほとんど一日中家にいるので、すぐにホコリまみれになる。雑巾がけは身体を屈めたり伸ばしたり、結構複雑な運動をするので、運動不足の身にも良い刺激となる。電気も使わないし音も出ないからエコだし静か。必要なのは布切れ一枚だけ。

免疫を鍛えようとおもって、身体に良さそうなことは試しまくっている。

ジムにいけなくなった分、外に出て歩く時間が増えた。朝6時位に起きて近くの自然公園まで散歩しに行く。公園が歩いていける距離にある場所に引っ越しておいてよかった。幸運である。

散歩は一回1時間くらい。これを2回繰り返す。2月から3月上旬にかけてはいち早く不安に駆られてガチ籠りをしていたが、却って逆効果だとわかった。適度に外の空気を吸って、日光を浴びなければ、自律神経がやられて身体が壊れてしまう。本末転倒とはまさにこのこと...家が広かったり庭があったりする人はよいが、普通の都会の一人暮らしというのは、狭い部屋でほとんど身動きも取れない独房のような場所である。そんな中にずっと引きこもっていたら、心も体も衰弱してしまう。日光に浴びなければビタミンDの生成量が減る。

根菜や緑黄色野菜を多品種摂取できるように工夫したり、海藻類を摂取したり、コーヒーの代わりに緑茶を飲んだりしている。

呼吸を出来るだけ鼻でするようにして、深く入れるようにした。

こう書いてみると、以前より健康体になっているような気がする。皮肉なことに、ウイルスのおかげで私は健康になりつつある。

近所の花屋で花を買って活けるようになった。植物をベランダや室内で育てても良いのだが、長期で離れられなくなる恐れがあるから、現状枯れることが前提のスタイルになっている。これも皮肉だが、ウイルスのおかげで部屋に彩りができた...

以前から数学の必要性を感じて微分積分あたりまでやっていたのだが、改めて数学の必要性を感じた。ここは、準備が足りなかった。ますますモチベが掻き立てられている。ありがたい。

備蓄に関しても、ある程度在庫があったほうが良いものの用意ができていなかったし、保管できるスペースがほとんど無い。ここも準備不足だった。なにかの知らせのような気がしている。感謝。

住処に関しても、田舎に農園か森を有しているの土地つきの別荘地のようなものを買っていれば避難する先が見つかったと思う。自分の背中を押してくれている気がする。

車も持っていれば、人気のない場所にドライブに行くことができ、ストレス解消になったと思われる。これも。

金。金があれば、まあ割とほとんどのことは解決できたかもしれない。圧倒的に、資本不足であった。頑張って稼ぐのじゃ。価値を生み出すのじゃ。

あるいは人。人とのつながりが希薄で、助け合うことが難しいと感じている。仮にインターネットが災害や電磁パルス等で死んだら、ということを考えると、ほぼ一人で乗り切らなくてはならない。コミュニティが自分の近くにあれば、相互扶助で乗り切れるのかもしれないと考えると、そういう社会的な生活というものについても改めて考えさせられる。

不安材料に目を背けたくなるし、見なかったことにしても良いのかもしれないと思う。

去年こんなことを書いていたのだが、それを改めて思い出した。

問題であったり、ある事象から想定される失敗やリスクというのは、たしかに人を圧倒するようなものがある。 圧倒されるとき、人の精神は敗北している。 僕の仕事仲間は、圧倒されない。どうにかそれをハンドルしようとする。彼らは勝利する。 オプティミズムというのは、ヤバい事実を見ないことではない。見えているが、その先へ行ける態度のことである。 彼らは選択する。従うのではなく、選択する。

alan-san.hatenablog.com

ここでは仲間のことが書かれているが、私もかく有りたいとおもったのだった。かくあるべし。

死が隣りにいるというのも、そこまで悪いことではないのかもしれない。感染によって死に至るリスクを意識していると、生というものはもっと彩りを鮮やかにして、1日の輝きが増すのかもしれない。私はワニの話を読んで無いが、きっと似たようなテーマだったのではないか。

かかる時、さこそ命の惜しからめ

かねてなき身と思い知らずば

私はここまで心頭を滅却しているようなサムライではないが、一人の人間として、一個の生命体として、あらためて生き方を考えさられる今日このごろ。

ウィーン行きを断念したのは相当ショックだった。が、そういつまでGriefしていても始まらぬ。日本には日本で良いこと、できることがあるだろう。それをやるだけだ。事業を起こしても良いのかもしれない。

P・M・A! P・M・A!

皆様お体にはお気をつけくださいませ。